死と向き合う
2022年12月26日早朝。13年間連れ添った妻が亡くなりました。
妻は2年半前、コロナウィルスの日本上陸と時を同じくしてステージ4の大腸がんを宣告されました。
腫瘍の摘出手術をして以来、本人の強い要望で、医療行為を受けること無く最後まで自然療法でがんと戦ってきました。しかし今年3月に病状が悪化し、それからはどんどん衰弱していきました。
そしていよいよその時を迎えた時。不思議と悲しさはそれほど無く「おつかれさま、がんばったね」という言葉と、最後まで自分の信じることを貫き通した妻に対する、尊敬と憧れのような感情で満たされていました。
死とは
この世から消えたわけでなく「魂の世界に還った」のだと僕は考えています。仏陀が説いたように、すべての生命は一つであり、そして時が来ればまたこの世に生まれてくる。そう信じています。とあるSF大作コミックのラストシーンでは、現世で深く関わりを持った命は、来世でも近い存在として生まれ変わる強いつながりがある。と語られていました。もしそうなら素敵ですね。
だから僕は死を「悲しい」と感じなかったのかもしれません。
魂の存在
妻が亡くなった翌日、最後のお別れに来てくださった妻の友人の一人がこんな話をしてくれました。
なくなった日の朝、妻が夢に現れた。金色の折りたたみ自転車にまたがって、カーキ色のつなぎを着て銀色のサンダルを履いた妻が
「へば、行ぐ。」(じゃあね、行くよ)
とだけ言って走り去って行ったのだとか。
なんとも変わり者(自称普通の人)の妻らしい光景です。誰にも病気のことを伝えていなかった妻が、最後に大切な友だちにメッセージを遺していったのでしょう。単語2つだけですけど。
そんな話を聞くと、魂は本当に存在していて、前述の死に対する考えもますます腑に落ちるのです。
悲しさはないけれど
死に対する悲しさは無いと言いましたが、苦しくて苦しくて同しようもない感情があります。
寂しさです。
妻の香り、犬の散歩、朝目が覚めた時。妻との思い出や、その時そこに居ることが当たり前だった瞬間を感じた時、楽しいときも、苦しいときも、喧嘩をしたときも、ずっとずっと一緒にいた妻を失った「喪失感」が突然襲ってくるのです。
本当に心の底から愛していた。いや今も愛している。
所ジョージのこんな名言があります。
「綺麗な女なんかいないんだから。一人もいないよ。うちのかみさん以外。みんな骨にすると、みんな同じようなもんだよ。うちのかみさんだけ、素敵な骨だと思うよ。」
そのとおりでした。
病気と戦い続けた妻は痩せ細り、骨に皮膚が張り付いているような状態でしたが、それでもたまらなく愛おしく、愛おしく、痛みに苦しむ妻を胸に抱き、キスをして最後の夜を二人きりで過ごしました。
そんな愛おしい人にもう会えないと思うと、たまらなく寂しいのです。
前へ
それでも時は進みます。前へ、前へと。後ろに引き返すことは出来ないのです。前へ、前へ、前進するしかないのです。
進みます。ただひたすらに。